初代理事長 鶴岡博氏は、横浜の発展に尽力した実業家です。
特に、横浜発祥の地である関内を愛し、街の人たちに慕われた存在でした。
横浜青年会議所の理事長となった1976年に、横浜スタジアム建設の資金集めや
横浜のジャズ文化の発展に貢献されたことは、誰もが知るところです。
1984年に、関内の若手飲食店経営者によって関内まつりが開催されると、
その受け皿となる団体が必要となり、鶴岡氏に要請がありました。
当初は断っていたものの、日参する若手メンバーの情熱に応え、
翌1985年に「関内を愛する会」を設立したのでした。
以降2009年に解散するまで25年間会長を務め、
関内まつりを始めとした関内のまちづくりに尽力されました。
また、2000年から14年間、株式会社横浜スタジアムの社長を務めた一方で、
中区でジャズライブレストラン「BAR BAR BAR」も経営。
横浜ジャズ協会の立ち上げや、「横濱ジャズプロムナード」の企画など、
横浜の文化発展にも貢献されました。
2002年に横浜文化賞を受賞されました。
ベイスターズ通りは、かつて「関内仲通り」という名称でしたが、
横浜DeNAベイスターズが日本一になったことを機に、
当時の横浜スタジアム取締役でもあった鶴岡博氏が
「関内仲通りでは、どこにあるか分かりづらい」と改称を提案し、
1999年4月2日の開幕戦に合わせて名称を変更しました。
「ベイスターズ通り」生みの親でもあります。
2017年12月16日に死去。
享年78。
2018年3月17日には、約900人が参列して
横浜スタジアムで「鶴さんを送る会」が執り行われました。
合掌。
横浜スタジアムに関する年譜
「横浜スタジアム物語」より抜粋
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昭和44年
神奈川県内アマチュア野球団体の総意として、横浜市と横浜市会へ「平和球場再建の陳情書」を提出。
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同年
大洋ホエールズと横浜市が、新球場が完成した場合は、フランチャイズ移転との覚書を交わす。
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昭和47年
署名運動を開始し、186,870人の署名を集め、横浜市に陳情書提出。しかし、土地を所有している大蔵省、神奈川県警、および横浜市の財政的な問題(建設費負担)によって、一部から反対があり四面楚歌の状態に。
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昭和50年
西武に中央政界への働きかけと資金援助を依頼。会社設立時に必要な資本金のうち、横浜で集められない分は西武グループが出資することで合意。横浜市は昭和53年4月開幕に向けてプランづくりに入る。横浜スタジアム500円株券5000株250万円内野指定席1席を45年間貸与し、800口で、資本金20億円を集める案がまとまる。
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昭和51年
10月半ば
横浜青年会議所(理事長鶴岡博)にお金集めの依頼。
10月30日
横浜市会に平和球場改造計画を説明。
11月11日
設立発起人会初会合
11月16日
横浜青年会議所理事会
11月26日
「横浜スタジアム建設推進協議会」発足
12月15日
資本金集めスタート
12月28日
800口完売
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昭和52年
2月26日
「株式会社横浜スタジアム」創立総会
3月31日
大蔵省建設許可
4月1日
横浜スタジアム建設スタート
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昭和53年
3月31日
横浜スタジアム完工
4月4日
こけら落とし、横浜大洋ホエールズ対読売ジャイアンツの公式戦 ホエールズが4-1で勝利
鶴さんのお話しを
きいてきました
(1)
大江 光正
大江電機株式会社代表取締役会長
横浜DeNAベイスターズを応援する会 理事長
財団法人横浜野球友の会 理事長
1978年に「大洋球団」は本拠地を川崎から横浜に移転し「横浜大洋ホエールズ」に球団名を変更しました。横浜移転から20年を経て1998年に日本シリーズ優勝。それから26年、2024年11月3日横浜スタジアム・横浜公園に集まった熱烈なベイスターズファンの大歓声に包まれ、横浜での2度目の日本一の栄冠に輝きました。
試合後にグランドを一周する監督・選手・オーナー・球団社長、「三浦監督ありがとう」「南場さんありがとう」と3万4千人のファンで埋まるスタンドからの声が飛び交う。横浜市民が一体となった熱い想いが爆発した感動と感激の場でした。この場面を鶴岡博さんが見ていたら、大泣きして「大江、やったぞ!」と何度も肩を叩いただろうと思います。
横浜スタジアムは、人口が急増するなかで、市民の連帯のシンボルとしてプロ野球の本拠地球場を造ろうと「横浜平和球場再建促進協議会」が結成され、1972年に署名運動が始まり建設への第一歩を踏み出した。プロ野球開催の条件が整う球場を提供できないと「大洋球団」の横浜への本拠地移転は実現しない。最大の難関は球場建設費用の捻出であった。
当時の堤義明国土計画社長が球場建設への全面協力に乗り出し、中央政界への工作と資金調達の道が拓け、1978年横浜でのプロ野球開催に向けて動き出した。設立発起人会で、新球場会社の設立資本金は20億円、オーナーズシート方式の株主800名(一株250万円)を集めることが決定した。
堤社長からは横浜で足りない分はバックアップすると言われ、横浜商工会議所が資金集めにしり込みする中で、横浜で半分の10億円を調達しないと、国土計画が中心となった東京資本に依存することになる。そんな時、TVK山下貞専務の指示で横浜JCとも親交があったTVK田代昌史営業部長が、JC理事長の鶴さんのところへ建設資金集めの話を持ち込んだ。
鶴さんはJCの代表として設立発起人会に臨んだが「西武資本の援助で完成できれば」との出席者のムードが「横浜の球場は我々の手で造ろう」と鶴さんの負けん気に火をつけた。直後のJC理事会は大紛糾。意見対立が怒鳴り合いになりましたが、鶴岡理事長の「今、我々が立ち上がらなければ、西武資本による球場が横浜に建ってしまう。横浜の文化は自分たちの手で守ろう」との涙ながらの演説が大勢を決した。鶴さん・高井貞夫さん。齋藤精二さんを中心とした20代・30代の若手経営者が一丸となって資金集めに奔走し、オーナーズシート400口(10億円)をJCとして申し込みしたことが呼び水となり、12月15日から2週間で目標の800口20億円を完売しました。
横浜で市民に連帯感が生まれ一体となって成功した歴史的出来事の一つであり、横浜JCが関与した市民による「まちづくり」の一つにあげられます。JCにとっても継続事業である横浜経済人会議や横浜開港祭につながる転換期になりました。誰よりも横浜を愛した鶴さんの大きな功績です。
1978年にはファン組織である「横浜大洋ホエールズ友の会」が発足し、横浜市民と球団・選手との連帯の絆を強める活動が始まり、20年を経て日本一の栄冠を手にすることになりました。友の会の会長には飛鳥田市長、副会長にはJC当年度理事長齋藤精二さん、理事には鶴さん、高井貞夫さんが就任。鶴さんは2000年から2014年まで株式会社横浜スタジアムの社長を務めました。友の会は「財団法人横浜野球友の会」「横浜DeNAベイスターズを応援する会」として引き継がれ、理事長職は鶴さん、齋藤さんから私がバトンを繋ぎ、横浜スタジアム誕生の歴史を伝えてまいります。
鶴さんのお話しを
きいてきました
(2)
齋藤 精二
株式会社横浜スタジアム 監査役
横浜DeNAベイスターズを応援する会 前理事長
財団法人横浜野球友の会 前理事長
鶴さんは、若葉運輸の二代目社長として、後に横浜スタジアムの四代目社長に就任し活躍したが経営者、経済人としてよりも、ヨコハマを、そして関内をこよなく愛した文化人として活躍した人であったと思う。鶴さんとは、30代に横浜青年会議所(JC)で知り合い、一つ違いの同世代で、何故か馬が合い、よく飲み、よく語り合った仲である。話題はいつもヨコハマのこと、関内のことが圧倒的に多かった。
戦後目覚ましい復興を遂げた関内地区が、横浜が、全国一の政令指定都市として拡大発展していく中で、伸長著しい横浜駅周辺、新横浜、MM21地区とは逆に賑わいを失いつつあることに人一倍危機感を持ち、何とかせねばとの強い思いが「関内を愛する会」の立上げや数々のイベント実施、更にジャズを通じての街の賑わいづくりを目指して横浜ジャズ協会の設立、ジャズプロムナードの実施に彼を走らせたと思う。
音痴なくせにジャズが好きだった鶴さんは、強い信念を持つ、有言実行の男。自説は絶対に曲げなかった。そして若い頃は怖いものなしのヤンチャなところが目立ったので、横柄だ、傲慢だと誤解された面もあったが、長く付き合う中で初めてわかったが、根は優しく以外にテレ屋でいい男だった。ニコッと笑った彼の笑顔は天下一品でそれを証明していたと思う。今や関内地のシンボルとも云われ拡大充実した今日の横浜スタジアム、強くなったベイスターズをみたらきっと喜んだろう。
そして進行中の大規模な関内再開発をみたら、彼は何というだろう? 企業中心の再開発と街づくりは違うとでもいうだろうか! 兎に角、強烈な印象に残るスゴイ男だった。